略歴
- 1953年岡山県出身
- 広島大学教育学部卒
- 小学校教師8年
- 生協や幼稚園父母の会、おやこ劇場等で活動
- 港南区芹が谷中学校PTA会長3期務める
- 1999年4月神奈川県議会議員初当選/2期
- 2007年4月の県議会議員選挙で3期目を目指すも次点。
- 2011年4月、横浜市会議員選挙に挑戦するも、次点。
- 2011年港南区相談センターを開設し、現在4か所での相談活動を毎月行っている。
- 2014年12月、衆議院小選挙区神奈川二区で出馬。次点となるが、比例代表での大きな躍進となる。
- 党港南区横浜市政対策委員長、党港南区相談センター所長として毎月4ヵ所で相談活動。教育を語る会代表。
- 2015年4月横浜市会議員選挙に当選、横浜市会議員に。
- 市会における現在の所属常任委員会などはこちらをご覧ください。
- 趣味は映画鑑賞と野歩き、ガーデニング。家族は夫と二女。上大岡東在住。
みわ智恵美物語
エピソード1
みわ智恵美は、岡山県の父親の郷里で三人兄弟の末っ子として1953年に生まれた。
その後母親の郷里である広島市に転居し,結婚し神奈川県に転居するまでをすごした。
智恵美が通った袋町小学校は原爆が投下された後、地下室のあるコンクリート製の建物であったことから、多くの被爆者が避難をしてきていて、建て替えられた今も当時を伝える資料館として智恵美がこどものころ過ごした校舎の一部が、あの日の被爆者たちの手書きの伝言とともに残されている。小学生の時には、原爆投下当時の惨状を被曝教師たちから聞く機会が毎年原爆の日にもたれていた。平和への熱い思いはこの頃に芽生えたと思う。
エピソード2
私が生まれたのは岡山県の父の里。小学生の夏休みには帰省し、川で泳ぎ、やぎの乳をのみ、石垣を登るへびを追いかけと思い出がいっぱい。父母が離婚してからは、帰省しなくなった。
30年後、娘たちに故郷を見せたいと久しぶりに帰ったが、子どものころと変わりない集落と田んぼの風景だった。変わっていたのは、川の水車が無くなったこと、列車を乗り継いで半日かけて帰っていた距離が、つながった高速道路でぐんと近づいたこと、そしてその道路の橋脚が建てられ道が空を横切っていたことだった。
その時に叔母が、川でとれた新鮮な鮎を塩焼きにしてもてなしてくれたが、それ以上の美味しい鮎をまだ食べていない気がする。
エピソード3
中学入学を機会にこれまでの運動音痴を払拭すべく、マット運動が得意だったことを活かして新体操部に入った。と言うより、新入生のための部活紹介で舞台の上で新体操を披露した3年生のあまりの美しさに憧れたのが本音である。2歳しか違わないのに、まばゆいばかりのレオタードスタイルと大人っぽい笑顔に魅了されたのである。体育館で柔道部と剣道部と卓球部と私たちで分け合って連日部活動に励んだ。
私たちの学校は床運動とフラフープを中心に演技を行った。さっとフープを上に投げその間に開脚回転で受ける。そしてフープをくぐって床で一回転。床の上をフープを滑らせて戻らせる等など、結構思い出すとわくわくする。夏休みは水泳と部活動と何故か生物クラブで顕微鏡をのぞく毎日。ある日学校帰りに正門前の文房具屋さんの隣のお好み焼き屋さんへ行く喜びを知った。のれんをくぐる時に至福の感覚に浸るのはここから?
エピソード4
中学生時代を、田園地帯で過ごした私は、高校進学と同時に、母が経営する喫茶店の近くに転居し、また広島の町中へと帰ってきた。 この高校受験の時には、9才年上の従兄が、受験の心得を伝授してくれた。
また、母の店の常連さんたち、顔から首筋にかけてケロイドがあり晒しを胸まで巻いてレースの上着を着ていて小指が無いおじさん、少年鑑別所の教官、家具店の社長さんなど、個性的な方々が、原爆の話や大学受験への助言をしてくださったりと、思い返すと、家族以外のたくさんの人びとと関わりながら大きくなったことを実感する。
エピソード5
アジア太平洋戦争末期には、日本じゅうで行なわれていたように広島の学生たちも、戦争遂行に動員されていた。
私の母校広島女学院でも、高学年は工場などに動員されていたが、1、2年生(12、4才)は米軍の空襲による火災の延焼を防ぐための建物疎開(道幅を広げるための強制的な住居などの撤去)の勤労奉仕に駆り出されていた。炎天下の中、屋外で作業していたために、原爆投下によって全員が被爆死するという悲惨な結果を招いた。
その歴史を持つことで、反核平和と被爆者援護に学生が自主的に取り組む校風があった。また、入学当時、米軍がベトナム各地への無差別爆撃を行っており、爆撃で傷ついた子どもたちが広島の病院で手術を受けていて、私もサークルの仲間と.紙芝居を持ってお見舞いにいった。この中で、私の中での反戦平和の思いは確実に育ったと思う。
エピソード6
高校生では、演劇部に参加。中学校の文化祭でやった「ベニスの商人」の英語劇くらいの経験しかなかったが、また素敵な先輩の姿に憧れて入部。主に大道具。
ある高校演劇部で被爆者の問題をあつかう劇中劇がある中、警報が鳴り少女たちの上に原爆投下・・・という芝居。広島の高校らしいでしょうか?
もう一つの思いでは、演劇部の仲間とマンガ好きとで、マンガ研究会をつくり、同好会誌を出す資金集めに、文化祭で紙芝居屋をやり水飴売りで結構儲けた。演劇部で鍛えた喉が役に立ったというわけ。
我が母校は女性の精神的自立を尊重する校風であった。1969年の安保闘争の跡で広島市内の高校でも学園の中で自治会と学校側が団体交渉を次々と実施。制服が無くなった男子校も。母校(プロテスタント系キリスト教の学校)では、「聖書の授業は良いけれど、成績表でのABCの評価はやめるべき」との生徒による全校集会が開かれ評価は無くなった。今、道徳を検定教科書の使用によって成績評価をするというやり方を見るとまさに歴史の逆流が起こっていると感じる。
エピソード7
大学は小学校教師になろうと地元の広島大学に進路を決めた。試験の2日目が終わり帰り道バスの中で気持ちが悪くなり、1時間以上歩いて家に帰った。翌朝、病院に行くと、「盲腸」の診断で即入院手術。1日ずれていたらと思うとぞっとする。大学の合格発表はラジオ放送を病院のベットの上で聞いた。近所の方が仕事でいけない母に代わって見に行ってくださり「確かにあったぞ」と。ご近所さんて本当に有り難い。
大学では、落語研究会に入り芸名は「めだか」そう目がでているから。三味線での出ばやし演奏のために邦楽部にも籍を置く。卒業制作は美術専攻で彫塑。タイトルは「バレリーナ」。無事卒業し小学校教師になる。田畑も川も山(山城跡有り)もある地域の児童数400人弱の小学校。付属幼稚園と学童保育所があった。みんなが家族のようだった。ここで、自閉症のミカちゃん不登校の教え子ユウコちゃん吃音障害のケンちゃん、家に帰っちゃったサンちゃん、みんなみんな私に沢山のことを教えてくれた。どの子も伸びるどの子も育つ力を持って生まれていること。それをダメにするのは大人という事も。
全ての子どもの成長と発達が豊かに保障される社会にしたいと政治への思いが芽生えたのもこの時期である。そして結婚し子どもを生む。夫が神奈川県に就職したので、広島から神奈川へ。教師の仕事も続けたかったが、家族で一緒に暮らす事を選択して退職。
エピソード8
神奈川県に転居し最初にくらしたのが川崎市幸区。親戚もいない川崎で、子育てに孤立しなかったのは、社宅に同じ世代が大勢住んでいた事、川崎の子育て支援が優れていた事が大きいと思う。子どもが幼稚園に入る前までの親子をサポートする場では幼稚園選びのお話もあった。「園が子どもに何をしてくれるかではなくお母さんたち親を成長させてくれる場所かどうかを判断基準にする事」というお話は、そのあと港南区に転居してすぐに始めなければならなかった幼稚園選びが自信を持ってできた。そして奇跡のような出会いがあった。
1987年に港南区に転居して、二人の子育てをしながら、地域の子育てサークル・生協・おやこ劇場・幼稚園父母の会・幼稚園や学校PTA・新婦人そして共産党の活動と、1996年の総選挙に立候補するまでの10年間ほど充実し楽しく豊かな時はなかったかもしれない。仲間や友人ができ、迷いながら失敗し、冒険と挑戦を繰り返し、子どもたちは地域のみなさんに育ててもらった。
1999年、県議に立候補。2期務めた。そして今度は横浜市会議員に押し上げていただいた。みわ智恵美を選んで良かったと思っていただけるよう、次回も押し上げていただけるようしっかりと働いていきたい。物語はこれからもつづく。