日本共産党横浜市議団が能登半島地震被災地に6月12日から14日までボランティアに行くことで、横浜の党3地区委員会に協力していただき、市民からの救援物資と義捐金をお預かりいただいた。それを受け取り、前日に物資を積み込んだ車で現地に行く組と新幹線で現地に行く組に分かれ、私は新幹線で金沢へ。
義捐金は直接輪島市へ届けさせていただくことになった。
―能登半島地震被災者共同支援センターでー
金沢駅からレンタカーで「能登半島地震被災者共同支援センター」(所長は藤野やすふみさん)に行き、本日の支援行動の指示を受ける。
センターで専従をされている前新潟市議(県委員会から派遣)から、今年正月に発生した能登半島地震の被災状況を伺う。
半島の中でも能登の被災が酷い。
245名が亡くなった。
能登は盆と正月は親戚家族が集まってご先祖にお礼をする習慣があり、若い方も帰省していた。
それで、地震と津波に素早く対応し助かったという例。
一方普段住んでいない人が集まっていて亡くなった例も
また、お正月で何もかも休んでいて初動が悪かったことがいまだに響いている。
横浜から持ってきた物資の前で。
現地では物資を渡すこともお話伺うときも、住民の方の了解を得ることなど支援についての姿勢を教えていただいた。
―七尾市へー
開湯1200年を誇る和倉温泉へ。有名な「加賀谷」は波打ち際に建ち外壁全体に「x」の字のクラックが見える。
町全体が液状化でホテルや旅館の土台がずれ、ひび割れ傾いている。
テレビで見た大勢の仲居さんたちが元気に立ち働いていた姿を思い出した。みなさん職を失った。イルカのすむ能登島の民宿も全滅との事。
田鶴浜多目的グランドに設置された仮設住宅66戸を訪問。
お米・水・ジャガイモ・ごはん・ティッシュペーパーなどをセットし、ちひろカレンダーも準備。
仮設住宅は、壁や天井が鉄板で、この日も相当な暑さ。部屋の温度は31度。でもエアコンつけないでいるって。電気代心配と。
震災後に妻の認知症が酷くなり入所したが、一人では会いにも行けないと92歳の男性。ご夫妻で暮らす方は「私たちは車があるけど、無い方は大変」と高齢者を気遣っておられた。
別の二人暮らしの方は、申し込んでいたのに、冷蔵庫も洗濯機も2週間届いていない。
布団が無いので購入してきたとのこと。
不自由な仮設のくらしに追い打ちをかけるような事態に驚きと怒りがわく。
なぜ支援センターが仮設住宅への支援を重視するのか。
収入に関わらず、食費も光熱費も、生活することすべてにお金がかかる事態。全壊した家を建て直す資力も気力もない中で、精神的に追い詰められている方々が多くいらっしゃるからだ。
お困りのことなど伺い、国や県にその声を届け、改善を図っていくことを目的としているからだ。
2日目は、珠洲市へ。被災の状況など聞き、またみんなで物資を積み込んで出発。
珠洲市は原発反対の運動をした市民の姿を描いた映画の上映運動で知ったまち。
道が壊れている。北へ向かう側だけ修復されている。
珠洲市街に入る。
大きな地震の後に津波に襲われた珠洲市宝立(ほうりゅう)町。
「危険」の貼り紙が玄関に貼られている。家の撤去も何も進んでいない。
地震の後にすぐ津波が来た宝立(ほうりゅう)町にある仮設に伺う。この仮説はほとんどが宝立町の方々。
大きな揺れが来てすぐ津波警報が出たので、「これは必ず来る」と思い夫と逃げた。
「お札一枚取り出せてない」と話され、これから畑に行くと。
震災後に夫は入院して今は一人と言う60代の女性は、「そばにあったカバンだけ持って逃げた」家は全壊で手続きは済んだがいつ取りかかるのか不明。それでも、「ここは顔見知りが多くて安心。みんなで支えあって笑うしかない」と話されて、ちひろカレンダーを「うれしい」と受け取っていただいた。
この仮設の隣には学校体育館の避難所があり、自衛隊の入浴車両が来ていた。避難所の80代の女性。
自宅は液状化で傾き電気も水もダメで、雨水をためて手で洗濯をしている。
自営業の息子が何百万もする機械を購入しこれからというときに地震。壊れた機械を修理する業者もつぶれた。先が見通せないと肩を落とされた。早く災害復興住宅になる仮設に入りたいと希望を話された。
ーつぶやきー
能登半島は、横浜市会議員に当選し8年間の浪人生活から抜け出た私が、自然と調和した暮らし方、伝統文化や海の幸を味わいたいと9年前に初めて訪問した地。やさしさ、美味しさに溢れた2日間。日本海の海岸線まで田んぼが繋がる輪島市「白米千枚田」。総持寺祖院は、8年前の地震被害から再建中。苔の緑に真っ赤なもみじの葉が映える庭を歴史ある寺院建築が囲む。どちらも今回の元日の大地震で壊滅的な被害を受けたと聞いた。
―奥能登 輪島市へー6月14日(金)の報告は次