みわ智恵美

三輪 ちえみ
日本共産党横浜市会議員
駆けある記

長崎原水爆禁止世界大会参加のまとめ

2015年10月2日

私は、長崎の世界大会に,日本共産党議員団から北谷まり議員と中学2年の息子さんとともに代表派遣されました。

  長崎の街の歴史を学ぶ中で,改めて人類史上初の原爆投下は、軍都広島とともに、兵器製造の町であった長崎に実行されたことを実感しました。当時三菱長崎造船所は、戦艦「武蔵」を建造し、三菱兵器が製造した魚雷が真珠湾攻撃で使用されているのです。戦争国家として歩んできた日本。その結果は罪なき市民がむごたらしく殺害され、美しい街が破壊し尽くされ、放射能汚染をもたらし、市民を長年苦しめる結果を残したのです。

  長崎大会は、例年以上の暑さの中で開かれました。世界大会では長崎の被爆者である谷口稜嘩(すみてる)さんが、国連で開催されたNPT(核不拡散条約)再検討会議に、厳しい体調をおしてまさに命がけで参加され、被爆者として、核兵器の非人道性を訴えてこられたことを、自ら報告されました。

 そして。安倍政権のすすめる戦争法案に満身の怒りをこめて反対の意志を示されました。その訴えを聞き、人類絶滅兵器のその現実を自らのからだで受けとめた被爆者の声を、安倍首相よ聞けと、私も怒りでからだが震えました。

 長崎に投下された原爆は、アメリカによって新しく開発された人工元素プルトニウムを材料としていました。米国の戦略爆撃調査団の報告には、「長崎は原爆の効果に関する実験室の研究に変わるものであった。・・・実際に測定できるものー人間と財産の破壊の程度、攻撃後の生産の実際の割合ーは地勢、投下時刻及び戦争末期の一時的な経済状況に大きく左右された」と述べています。

世界大戦後の世界の軍事的実権をも握ろうとしていたアメリカは、この悪魔の兵器を使用し,原爆投下から二ヶ月後の十月から約二ヶ月間、広島と長崎の原爆被害について多面的に綿密に調査を実行しています。

 爆心地公園で被爆体験を聞きました。お話ししてくださったのは,小学校一年生で被曝した男性。自らの家族は全員無事だったが,どこで亡くなったのかも分からない同級生。家族で子ども1人だけ残された同級生のことを話してくださった。被曝し、たった1人残されたその子の七十年を思いました。そして、安倍政権のすすめる戦争法案には、断固反対と怒りをこめて話されまし。

 被曝七十年を迎え,兵器製造の街だった長崎は,ますます戦争する国づくりの兵器生産の街としての姿をあらわにしています。今、三菱重工は、自衛隊の護衛艦、潜水艦、戦闘機、特殊兵器、宇宙利用も含めたハイテク軍事機器の生産をもっとも重視しているというのです。

 被爆・敗戦から七十年を迎えた日本が大きく戦後の歴史を書き換えようとする今、改めて日本が行った戦争とその実相を学び継承することの重要性を考えました。


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