10月6日、ノーベル平和賞を国際NGOのICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)が受賞してから、少し時間がたったが、改めてお伝えしたい。(ブログの最後のほうに被爆者の被爆の実態を伝える写真があります)
今年7月7日に「核兵器禁止条約」が国連で採択されたが、その運動が評価されてのノーベル平和賞の受賞。しかし、ICANが誕生するまでの何十年もの間、世界中の核兵器廃絶の運動をリードしてきたのは、被爆者の方々とそして核実験被害者の方々。
被爆者は放射能被爆の影響で傷つき病んでいる体を押して、命がけでこれまで運動を進めてこられた。そして、世界中にその運動に声に共感し、ともに核兵器廃絶の運動に参加してきた世界中の市民・運動団体の存在がある。
被爆者の命がけの核兵器廃絶の運動と、条約採択を世界各国首脳に働きかけ、条約成立の大きな牽引車となったICANは切り離すことのできない関係だと思う。
新聞や、テレビラジオが伝えた声を、被爆者の方々の声を紹介したい。
原爆被爆者唯一の全国組織である日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)の坪井直代表委員は、「同じように核兵器廃絶を訴え行動してきたICANの受賞をうれしく思う」「命ある限り核兵器のない世界を訴え続けていきたいと思う」と語られている。
坪井さんご自身も何度も国連に行かれて、被爆の実相や被爆者の実態を伝え、核兵器廃絶を訴えてこられた。私も、何度も直接お話を伺ったが、あきらめない、でも一歩一歩必ず前進という坪井さんの強く明るい姿勢に多くのことを学ばせていただいた。オバマ大統領に笑顔で話しかけていた姿を覚えていらっしゃる方もあると思う。核兵器禁止条約の採択、ICANの受賞となったが、核兵器廃絶への道のりは、まだまだ、でも、不屈にあきらめないという強い思いあらためて感じた。
長崎原爆被災者協議会の田中重光会長は「私たちは72年間、再び被爆者をつくらないと国内外で被爆体験を講和してきた。そのことが70年たっていまの世界の核兵器廃絶の流れになったんじゃないか」と話されているが、まさにその通りだと思う。
また、日本被団協の代表理事である箕牧智之さんは「慰霊碑を前にして核兵器廃絶運動のNGOがノーベル平和賞をもらったよと報告させてもらいたい」と語られている。
受賞したICANのベアトリス・フィン事務局長は「受賞は大変名誉なこと」「核兵器廃絶への人々のたゆまぬ努力をたたえるものだ」そして「この賞は広島と長崎の被爆者、世界中の核実験被害者のためのもの」と語られている。
ICANの国際運営委員の川崎哲さんはメッセージで「この受賞は核兵器禁止・廃絶を願い勇気をもって声をあげてきたすべての人たち、とりわけ広島・長崎の原爆被爆者の皆様に向けられたものだと思う」と述べておられる。
私は、ノーベル平和賞のニュースを聞いて、一番に、 自らの被爆の写真を見せながら、核兵器の恐ろしさを訴え続けた長崎の被爆者で、日本被団協代表委員の故谷口稜曄さんのことを一番に思った。88歳で8月に亡くなったが、核兵器禁止条約が採択されたことを、ご存命の時に知っていただけてよかった。しかし、日本政府が「条約には反対」と表明したことは、本当につらいことだったと思う。
最後に谷口さんのお話を直接聞かせていただいたのは、2015年長崎で行われた原水禁世界大会の会場。背中一面がやけどでどろどろになり真っ赤な肉がむき出しになっているご自身の被爆当時の写真を見せながら、声を振り絞って語られた。(写真は1946年1月に撮影された報道写真)
国連で開催されたNPT(核不拡散条約)再検討会議に、厳しい体調をおして参加され、被爆者として、核兵器の非人道性を命がけで訴えてこられたことを報告されたのだ。
「谷口さん、被爆者の運動がノーベル平和賞を受賞しましたよ。核兵器禁止条約にサインする政府をつくるために、核兵器廃絶の現実を作り出すために私も頑張ります」と胸に刻んだ。
横浜市も参加している平和首長会議も、国連NGOのICANの一員ということだ。
大いに頑張っていきたい。
ところで、日本共産党の志位和夫委員長が、今年国連の場で、核兵器禁止条約の採択に向けての会議に参加し発言をしているが、ICANの援助があったと聞いている。
核兵器廃絶に賛同するすべての人が、国境も人種も宗教も思想信条も超えてつながっていけるように頑張るICANの受賞を喜びあいたい。