村田さんのお話からまとめて報告する。その1
被害の実態は闇の中 突然故郷を追われて
横浜には三年前の3月29日に避難してきた。
見通しの立たない暮らしにくたびれている。
国の政策が住民の人権を守るどころか、真逆の方向にある。疲労感を覚える。
定年後故郷福島県南相馬市小高の実家に帰り、果樹園や畑を耕作して穏やかなくらしをしていた。そこに東日本大震災による原発事故が起こり、突然、故郷を追われて逃げ惑う日々を送る。
3月11日当日、海岸近くのスーパーで地震に遭う。ものすごい揺れの地震だった。すぐに小高い山の上にある自宅に車で帰ったが、30分後に津波が。スーパーの駐車場の車が何台も津波で流されていた。
(左の写真は-2013年10月にみわ智恵美撮影の南相馬市の海岸近く、数本の松の木と電柱の向こうに見えるのが海,流されてきて放置されている車)
自宅は原発から16キロメートル。あまりの津波の被害に頭がいっぱいで、原発の事は考えなかった。
翌12日となりの人から「原発が爆発した、逃げろ」と言われたが、メルトダウンの事も分からなかった。
18時半「原発から20キロ圏内の人は退避」との事だったが、原発は深刻でないとの報道もあり、どこに避難するのかもわからなかった。
13日に、まわりが静かなので近所をまわってみたら誰もいなかった。「みんな逃げたのか」と役場に行くと二人いて、30キロ圏内の体育館を知らされ、避難して毛布にくるまって過ごした。
ケータイ電話通じない。15日までテレビ無し。新聞無し。カーラジヲを1時間くらい聞いて情報を収集した。ガソリンが無くなって心配になってきた。
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